神吾田の津姫【木花之咲夜姫(このはなさくやのひめ)別伝】その10

神話 2 月 19th, 2008

ある日、山々は赤々と燃えるような夕焼けを装(よそお)っていました。姫は両の手を上に挙げて、真紅(しんく)の空の中に溶け入りました、

直後一段と赤暮色を増し、吾田の津の山川海を染め上げました、夕暮色は悲しみの色を撒(ま)き散(ち)らし、桜の花びらを紅で染めたような空を描きます、山影に堕(お)ちようとした、

茜(あかね)の陽(ひ)は最後の力を放ち、天地は光彩(こうさい)陸離(りくり)となした。その日から姫のお姿を見たものはおりません。

何処(どこ)にも、姫の陵墓(りょうぼ)はありません。「姫は空の国に帰られた」との噂も次第に消え、山々を染める夕焼けを木花咲夜姫(このはなさくやのひめ)の赤いベールと重ね合わせます。

千数百年たった今でも、笠沙の岬から見る夕焼けは、火(ひ)の鳳(おおとり)が再生(さいせい)するかのように澄み渡った真紅の夕焼けを見る事があります。

おわり

(著者:有留 秀雄さん)

神吾田の津姫【木花之咲夜姫(このはなさくやのひめ)別伝】その9

神話 2 月 19th, 2008

➅ 光の神吾田津姫(かむあたつひめ)

時は静かに過ぎて、三人のお皇子(みこ)様(さま)も成人を迎えました。ニニギの尊はその命を笠沙の宮で閉じました。古事記には、筑紫野(ちくしの)の日向(ひむか)の可愛(えの)岳(たけ)山陵(さんりょう)に祭りましたと記載されています。延岡の町並みの北方にそびえる可愛(えの)岳(たけ)山陵(さんりょう)に御陵墓(ごりょうぼ)はあり、現在もお祭りを続けております。

やがて火照尊(ほでりのみこと)は、青島の海部族の長になられ、海幸彦と呼ばれました。火遠理尊(ほおりのみこと)は西都周辺の山部族の長になり、山(やま)幸彦(さちひこ)と呼ばれました。このお二人のご兄弟のお話は後に譲(ゆず)ると致しまして、その後の姫のお話を致しましょう。

吾田の津は、火須勢理尊(ほすせりのみこと)がその静な人徳を持って治めて居りました。吾田姫(あたひめ)は年老いても、その美しさに蔭(かげ)りも見せず、

時折笠沙の宮から岬に向かいます。人々は敬意を持って、姫の姿を拝しました。

>>その10へ続く

(著者:有留 秀雄さん)

神吾田の津姫【木花之咲夜姫(このはなさくやのひめ)別伝】その8

神話 2 月 19th, 2008

海神はニニギの尊の長壽を願い嫁がせたものをと大層悔しがりました。
ニニギの尊は吾田の津に稲作を伝え、稲の収穫が始まりますと冬の食物を心配する事がなくなりました。次第にこの地では争いが少なくなりました。海神は米を使いお酒まで作りました。

 笠沙の宮では吾田姫が懐妊致しお目出度になりました。しかし余りも早い懐妊に「もしや、別人の子では」とニニギの尊が疑いをかけました。姫は烈火(れっか)のごとく怒(いか)り、天(てん)の神(かみ)に「もしこの子がニニギの尊の子供で無かったら、一緒(いっしょ)の死(し)を賜(たまわ)ります」と誓約(うけい)を致します。そして産室(うぶや)に火をかけでのお産になりました。そして火(ほ)照(でりの)尊(みこと)、火須勢理尊(ほすせりのみこと) 火遠理尊(ほおりのみこと)の三(さん)皇子(おうじ)を産みました。

海神は孫の誕生を大層喜んで、孫の成長を祈り天手向けの酒(あまのたむけさけ)を造り大社(おおやしろ)に奉(ささげ)げました。

【ホデリは後の海(うみ)幸彦(さちひこ)です。ホオリは後の山(やま)幸彦(さちひこ)です。ホオリが産湯(うぶゆ)に使った川の名が伝え残されました、現在大崩山を源流(げんりゅう)とする、祝子〔ほおり〕川です、産室は現在の俵野〔火生野〕にあったのではと言われ伝えます。】

>>その9へ続く

(著者:有留 秀雄さん)

神吾田の津姫【木花之咲夜姫(このはなさくやのひめ)別伝】その7

神話 2 月 19th, 2008

    ➄笠沙の岬

 その日、笠沙の岬には早春の風が静かに流れていました。穏やかな風は潮の香りを運び、姫は至福のひと時を岬で過しておりました。

 ニニギの尊は朝から妙に落ち着かずに、赴(おもむ)くままに櫛の津より笠沙に向かいました、長い白砂の浜は打ち上げられた、海草の干される香りに包まれて、寄せる波に歩調合わせてゆっくりと進みます、肌を指す冬の風も陽光に照らされて和らぎ何事も事も無く岬の下に着きました。

 ニニギの尊は岬を見上げて「どうしても岬に行かねば」と強い想いに押されて、供の者にここで休憩するように命じ、お一人で急峻な山道を登ります。途中の景色の美しさなど目にも止めずに一気に登り切りました。

 ニニギの尊は一瞬、夢の中に飛び込んだのかと、自らを疑いました。この別天地、いや別世界とも言える、不思議なベールと共に居座る、姫に呆然と見とれて仕舞いました。

 しばらくして、姫は「あなたですね、私の願いを聞き、おいでになられた方は」とお尋ねになりました。ニニギの尊はそれに答えずに「食物の種をお持ち致しました」とお答えになりました。お二人とも、その一言で出逢うべきして出逢う相手である事を確信したのでした。姫は大山津見の神〔海神〕にお会いして欲しい旨お伝えをして、お別れを致しました。

 翌日、姫はニニギの尊を供に笠沙山から降(くだ)り、笠沙(かささ)の長屋(ながや)に着きました。海神はニニギ尊を特別な使者〔天の使者〕として、暖かく迎えその日は夜遅くまで、ニニギの尊に千穂の郷の事や稲の育て方などを詳しく聞きました。海神は大層に喜び、新しい文明を運んで来られたニニギの尊に対して、吾田姫との結婚をお許しになり、姫の為に笠沙山に笠沙の宮を建てました。

 そしてニニギの尊を大山津見の神の後継者としたのでした。この時に、姉岩永姫も同時にニニギの尊に嫁がせたのでした、よく働きよく気配りをする姫でしたが、桜の精とまで言われた吾田姫と並べ比べると醜く感じられたのでしょう。岩永姫を海神のもとにお返しになられました。

>>その8へ続く

(著者:有留 秀雄さん)

神吾田の津姫【木花之咲夜姫(このはなさくやのひめ)別伝】その6

神話 2 月 19th, 2008

 その願いは、姫の胸の中に確かに予見されていたのです。そして神々はその予見に対して「この地で出(で)逢(あ)える者こそ、姫の願いを叶(かな)えるであろう」との神託(しんたく)を下したのでした。

 千(ち)穂(ほ)の郷(さと)に稲作を伝え、この地を豊かで平和な国にした、天孫ニニギの尊はある日「吾田の津では、食べ物を奪(うば)いあい、争いが絶(た)えない土地である」と聞きました。アマテラスの言葉「争いは腹(はら)が減(へ)ることが原因(もと)だ、稲の種を与え、稲を作り、食べる方法を教えなさい」と御自分の天命に促されて、五(いっ)瀬(せ)の川(かわ)を降(くだ)ります。大川(おおかわ)を降り筏は争いを避(さ)けるかのように、笠沙の長屋の向かい側を通り抜けて、岬を迂回して櫛(くし)の津(つ)で廻りました。

 ニニギの尊にも、戦いを避け、人々の幸せを目的にした神託が下されていたのでした。運命の糸は神々の願いのまま、お二人を近づけます。

>>その7へ続く

(著者:有留 秀雄さん)